ボスが退社してから、2ヶ月経とうとしている。
それにしてもフェアエルパーティーの時は唖然となった。大の男が大泣きで周りを気にもせず、これほどまでに号泣できるホーリーは、ある意味男としてカッコ良かった。ボスに渡すはずの花束をテーブルに置き忘れ、一言もしゃべれぬまま、泣き崩れていた。
パーティー会場を後にして、ホーリーの車でニューベーリーポートの街を三人で何となくドライブしていた。気が付くとボスはウトウトしていたが、ホーリーと私はこの小さな港町を、何度も何度も走り回ってボスとの思い出を語っていた。
1970年代前半の黄色のビートルは、ホーリーの愛した最高の相棒だった。この車がドイツ製でなくなる日が、俺が運転をやめる日だとホーリーはいつも言っていた。ホリーは隣町のソールズベリー出身で、子供の頃からボスとは知り合いだった。
こんな小さな町をいい大人が流していると、ホーリーのハイスクール時代の友人がクラクションで挨拶をするのだ。なにせビートルのカブリオレは、この辺ではホーリー以外は誰も乗っていないからである。
ラジオから流れる曲は、オールデイズとカントリーソング。1940年代生まれのおっさん達には最高のチャンネルだ。ボスはラジオから流れる曲を口ずさみながら、何度もウトウトしていた。
酔っているのか、それとも心地が良いのかは分からないが、今日の日がハッピーな事には、間違いなさそうである。
あの日は朝までボスと酒を飲み今後の話をした。あれだけ飲んでいたのに自分でタクシーを呼んで朝方にはきちんとした自分が自宅にいた。朝の何時だったかはっきりと覚えてはいないが、キッチンの前にはマーリーが立っていてパンケーキを焼いていた。
焦げた小麦粉の香ばしい香りと心地よい音楽が、幸せを感じさせてくれていた。
酔ってはいなかったのに意識はどこかもうろうとしていて、音楽が流れていたことに気が付かなかったが、よく耳を澄ましてみると私の大好きなムーンリバーが流れていた。
ムーンリバーといえば、「ティファニーで朝食を」の主題歌である。我が家はニューヨークのティファニーとはまったく似つかないが、コーヒーの香りと小麦粉の焦げた匂いがムーンリバーをさらに盛り上げてくれた。
廊下の奥から長女がハミングしながらやって来た。ごく自然にムーンリバーをハミングしている。次女も階段を下りながらハミングしている。私は驚いた。どうして子供たちがムーンリバーを知っているのか?。
マーリー、どうして子供たちはこの曲を知ってるんだい?
するとマーリーは少し首をかしげながら両手をあげてこう言った。
あなたが寝ぼけて起きてくると、すぐにテレビをつけてボリュームをあげ、天気と道路の渋滞情報に夢中になるから、ムーンリバーはそこで終了。
あなたがTVの音量を大きくするから、ムーンリバーが聞こえなくなって消すのよ。お気に入りだから毎朝かけてるの。
わたしは驚きを隠せなかった。私の好きな音楽で五本の指に入る、大好きなムーンリバーが毎朝かかっていた事を初めて知ったのだ。マーリーも大好きな曲なので毎日かけてくれていたのだが、私はそんな事を全く理解もせずにTVをつけていたのであった。
娘たちも何となく心地よく意味など理解もせずに、口ずさんでいたのであった。ムーンリバーと言えばアンディーウィーリアムスが有名だが、ティファニーで朝食をのオードリー・ヘプバーンが歌うムーンリバーが最高である。
毎朝かかっていたのは、アンディーウィーリアムスやフランクシナトラなどではない、オードリーのかすれた声のムーンリバーだったのだ。
この曲は誰もが歌いたい名曲で、プロであれば誰が歌ってもさまになるが、オードリー以上のものはいない。
オードリーの相方を務めるポール扮するジョージ・ペパードは売れない小説家。ジョージがタイプを打っているとどこからか聞こえてくるハスキーな声。外を覗いてみると窓腰に腰かけてタオルを髪に巻いたオードリーが、ギターを奏でながら切ない声で歌っている。
昼間のおしゃれな装いとは真逆の、デニムにフルーツオブザルームと思われるスウェットシャツを、少しゆったりと着こなす姿は、男なら誰しもが恋してしまうシーンなのだ。
そしてこの曲は私達二人にとっても、忘れられない大切な思い出の曲でもあったのだ。
続く