【アメリカ A to Z】と題して、A~Zまでの頭文字で一つずつ、アメリカのモノ、ブランド、人物などをご紹介しています。「アメリカ」「アメカジ」好き親父の嗜好の強い内容となっておりますが、今回は、Y、Zについて。A to Z の最終章。
目次
- 「Y」Yankees
- 「Z」怪傑ゾロ
- まとめ
「Y」Yankees
Yと言えば「ヤンキース」。日本人メージャーリーガーでは松井秀喜氏が有名である。
ヤンキースの歴史は、1901年のアメリカンリーグ創設と同時に発足する。
元々はメリーランド州ボルチモアで誕生しオリオールズと名乗ったが、現在のボルチモア・オリオールズとは無関係である。
1903年にニューヨークへ。当時球場が高台にあった為、オリオールズから「ハイランダーズ」と改称され、球場名はヒルトップパークと呼ばれた。
その後、メディアが彼らのことを「Yankees」と呼んでいた為に、いつのまにかチーム名がヤンキースになった。
帽子のマークで有名な「NY」はNYPD(ニューヨーク市警察)の名誉勲章にあしらわれている。これをデザインしたのはかの有名なティファニーである。ニューヨークとティファニー、そしてヤンキース。なんとなくハイセンスな感覚がする。
現在、この球場の跡地にはコロンビアプレスビタリアン病院が建っており、ケガをした選手はここを訪れる。ヤンキースタジアムで試合中に怪我をした、松井秀喜氏もこの病院に運ばれた。
当時のレディース&ジェントルマンは、試合の度に正装をして球場へ出向いた。現在のTシャツ短パンにキャップで応援するようなラフな感じではなかったのだよ。
ヤンキースの初代所有者はフランク・J・ファレルとウィーリアム・S・デベリー。
彼らのフランチャイズを購入したのがジェイコブ・ルパート・ジュニア。彼は子供のころから野球が大好きで、いつかフランチャイズのオーナーになるという夢をかなえた。
当時のヒルトップパークは、大家でありNYジャイアンツのオーナーでもあったチャールズストーンハムに、悪質に球場の家賃を上げられ、仕方なくハーレム川を渡り、ブロンクスに移転する事となった。
1923年4月18日に、正式にオープンしたヤンキースタジアム最初のゲームカードは、ボストン・レッドソックスだった。
その日4-1でヤンキースはレッドソックスを打ち破り、そのうちの3ホーマーはボストンから移籍したジョージ・ハーマン・ルース(ベーブ・ルース)が打った。
そしてボストンとルースの関係式よりも、ここからヤンキースとルースの関係式が成り立っていくのだ。
ベーブルースの話に変わりそうなので、ヤンキースの話に戻す。
ヤンキースを支えた名プレーヤーは多くいるが、ベーブ・ルースを外して、私の独断と偏見でヤンキースのNo.3を紹介したいと思う。
第3位 ホワイティー・フォード
選手生活をすべてヤンキースで過ごした。球団史上最多勝利投手で236勝を記録、ワールドシリーズでは、22試合先発、10勝94奪三振をやってのけた最強の投手である。
ニューヨークで生まれ育ち、ケーシーステンゲル監督に評価されて、1950年に背番号19でメジャーデビューしたが、すぐに朝鮮戦争に従軍して作業中に選手生命を危ぶまれる程の怪我を負う。
重症を負った彼は、懸命な努力とリハビリにより1953年にチームに復帰。その年に18勝を上げる。さらに勢いを増していく。
1955年は最多勝、1956年は最優秀防御率と最高勝率、1958年には最優秀防御率、こうなってくるとスーパーマンのような勢い、所謂、負け知らずである。
1961年と1963年に最多勝と最高勝率を再度獲得、押しも押されぬヤンキースのエースとなった。
そして彼はスーパースターであるベイブルースの記録、29回2/3イニングを上回り、33回2/3イニング連続無失点のワールドシリーズ記録を樹立し、サイ・ヤング賞を受賞した。
もちろん後に殿堂入りし、最後につけていた「背番号16」はヤンキースの永久欠番になった。
一昨年の2020年、自宅においてワールドシリーズ第4戦を観戦中、家族に看取られながら91歳の生涯に幕をとじた。
第2位 ジョセフ・ポール・ディマジオ(ジョー・ディマジオ)
通算成績はそれ程ではないかもしれない。名門ヤンキースにおいて、素晴らしい功績を残した選手は数多くいるが、まさしくこのランクインは、私の偏見で2位。とにかくかっこが良い!
元、マリリン・モンローの旦那だっただけあり、身のこなし、着こなし、ネクタイの締め方、全てがカッコ良いのである。
もちろん野球においても素晴らしい実績がある。
ベーブルースの引退後、1936年にヤンキースにてメジャーデビュー、打率323本塁打29本打点125と、ベーブ・ルースのなき穴を埋めるに十分な成績を残した。
翌年1937年は46本塁打を放ち、メジャー2年目で本塁打王になり、その年に初のMVPと首位打者にも輝くのである。
その後の勢いも誰にも止められず、1936~1939年のワールドシリーズ4連覇に大いに貢献した。
1941年には、56試合連続安打を記録し、確か?現在もこの記録は破られていないはずである。57試合目が無安打で、その後また16試合連続でヒットを打っている。
日本との関係も深く、長嶋茂雄氏も彼の大ファンであり、長嶋氏は、
"彼こそが野球人の模範" であるとも言っている。
第1位 ミッキー・マントル
彼のことを知らない野球人は「もぐり」であろう。ジョー・ディマジオやホワイティー・フォードは昔の人過ぎて知らない方もいるかもしれないが、同じ昔の選手でもベーブ・ルースとミッキー・マントルは知らなければならない。
ニックネームはミック、右投げ両打、いわゆるスイッチヒッターである。日本では、投手に対して有利・不利がある為、どちらも打てるスイッチヒッターは、貴重な存在だ。
そしてメジャーリーグとなると、更に"有利な事" がある。
日本のプロ球場は、几帳面な日本人らしく、左右均等なつくりが当たり前。しかし、アメリカは違う。左右の長さが違えど、限られた土地に強引に造ってしまう。
左と右でホームランまでの距離が違うのだ!実にアメリカらしい。
レッドソックスの本拠地、グリーンモンスターで有名なフェンウェイ・パークであれば右打者が有利、ヤンキースのヤンキー・スタジアムであれば左打者が有利と、各ボールパークによっても、有利・不利のあるメジャーリーグ。
メジャーリーグでのミッキー・マントルのようなスイッチヒッターは、極々有利なのである。彼は両利きバッターで史上最多の536本塁打を記録している。
ヤンキースはディマジオが兵役から帰還後、あまり成績が振るわず次の選手を考えるようになっていた。もちろんディマジオのようなスラッガーでなくてはならなかった。
GMのジョージワイスはブルックリンドジャースから、ジャッキーロビンソンの入団に功績のあった優秀なスカウト「トム・グリーンウェイド」を迎え入れ、全米のスカウト網を駆使してポスト「ディマジオ」を探し求めた。
そして俊足で両利きのスタープレーヤーのミッキー・マントルを発掘した。彼は偉大なパワーホームランバッターに成長するが、決して順風満帆ではなかった。
何度もの怪我を繰り返し、ポスト「ディマジオ」としてのプレッシャーに悩み、苦しみ大スランプを味わった。様々な苦悩の末、1952年に故障からの復活と共に、遂にディマジオに代わる選手になったのだ。
1960年タイガーススタジアムで放った本塁打は195mと記録されて、1995年度版のギネスに史上最長の本塁打として掲載されている。
彼の「背番号7」もまた、はヤンキースの永久欠番となり、通算536本塁打は今もスイッチヒッターとしてはMLB史上最多で、史上最高のスイッチヒッターとして、1974年に殿堂入りを果たしている。
「Z」怪傑ゾロ
Zは映画にもなっているアメリカンヒーローの元祖ともいえる作品「ZORRO」である。アメリカの漫画家マッカリーが1919年に創作した覆面のヒーローだ。
制圧者と戦い、姿をくらます時には必ず「Z」のマークを残す。今回ウクライナに進攻のロシア軍が戦車に「Z」マークを施したが、プーチンはゾロを気取っているのか?
ヒーローではなく制圧者であろう。制圧者が姿をくらます時に使用しているようにしか思えない。
さて、少々嫌な話になってしまったが、話は最古のヒーロー「ZORRO」の話。
1919年に執筆された小説が基になり、ダグラス・フェアバンクス主演で映画化。
1960年にはテレビで映画化、そして1990年にはアニメに。アメリカンコミックでも有名で、今でも多くのファンがいる。
1998年と2005年にはアントニオ・バンデラスが怪傑ゾロを演じ、大ヒットを記録した。
ストーリーは?というと・・・
ときは、メキシコがスペイン領だった頃、カピストラノ地方で、強きをくじき弱きを助ける大盗賊。その反面、賞金首のお尋ね者、それが「怪傑ゾロ」だ。
虐げられたインディオを助け、悪に決闘を挑む正義の味方。怪傑ゾロが現れ去った後には、壁にサーベルで「Z」の字が彫られ、これがトレードマークになって子供たちは、その気になったのである。もちろん私もだ。
ある日、美しい一人娘ロリータは、大富豪の息子ディエゴと青年将校ラモンから求婚される。
しかしロリータは、ただの金持ちでぐうたらなディエゴや、男気溢れるラモンよりも、紳士的で強く優しいおたずね者の「怪傑ゾロ」に、心惹かれていくのである。
しかし、怪傑ゾロの本当の正体は、ドラ息子ディエゴであった。
どうしようもない遊び人だったディエゴは、15歳の時、虐げられている人々の苦しみを見たことにより、正義の心が芽生えるのであった。
彼は密かに乗馬・剣術・武術等を学び、自らを鍛えあげ、最強の紳士、最強の盗賊になっていった。
子供の頃、母親のスカーフや毛布を纏い、木の枝を削り剣として、正義のヒーローになりきっていた。私の記憶していた怪傑ゾロは、努力もせずに強かったと思っていたが、この記事を書くにあたり、努力家の一面を知った。
怪傑ゾロはアメリカABC放送で、1957年10月10日~1959年7月2日まで放送された。製作はディズニーで、日本では1961年~1966年まで日本テレビで放送された。
アランドロン主演の映画もあった。
いつの時代も、ヒーローは少し謎めいていて、どこか寂し気な感じがする。まさにアランドロンにぴったりの役であった気がする。
ヒーローの定義は "強気をくじき弱気を助ける" 。ゾロから始まってスーパーマン、スパイダーマン、バットマン。すべてが正義の味方である。
ヒーローものは、必ず時代背景がそこにあり、誰しもが "正義の味方" を探しているのかもしれない。
いつの時代にも悪人たちはいる。弱きものをだましたり、暴力で言うことを聞かせたり、力によって差別をしたり。誰かがいつも悪と戦わなければならない。
そこには損得などなく、単なる正義の味方として弱きを救って欲しいものである。
まとめ
アメリカAtoZ。最後までお付き合い頂きまして有難うございました。最後の方は少しやっつけ仕事の様でもありましたが、どうかお許しください。
ひとまず、アメリカを「A~Z」までブランド目線で書き始めたのですが、どこかで脱線したり、どこかで意味不明になったりと、やはり素人が書くとこんなものなのでしょう。
これからはアメリカにこだわらない話や、短めの文章も書いていきたいと思います。
どうかこれからもお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。
- 完 -
エディー