続けて読んで頂いている方々にはやはり今回の話は、アメリカ「AtoZ」の P・Q・Rになると思われるのが当然であろう。けれどここで少し、料理でいうところの「箸休め」のつもりで、IVYとはなんぞや?と言う事を書いてみました。
目次
- 箸休め
- これぞ自分勝手なアイビー
- サラリーマン時代のアイビーな話
- アイビーな先輩達との思い出
- まとめ
箸休め
誠に勝手な話なのだが、実は真面目な話ばかりで、自分的には少し飽きが来ていたところでもあるので、今回の話は「箸休め」ならず「筆休め」のつもりでお気軽に読んでもらいたい。
そもそも本来の私は「生真面目」な性格ではなく、周りから注意もされていてこでは使用禁止になっているが、本来は自分の事を私などとは言わず、「おいら」とか言っている。
おいらは自称「江戸屋」。まあそれには、ちと訳がある。本来、江戸っ子と呼ばれるには、6代継続して江戸(東京)に住み続けていないと、江戸っ子とは呼べないのだそうだ。
6代とはまた、なかなか敷居が高く、現在都内に住む者はほぼ「江戸っ子」とは呼べないのである。なのに何故おいらが江戸屋なのか?
それはサラリーマン時代に世話になった、代々木上原の花屋の富さんに命名されたからなのだ。
おいらが蝦夷(えぞ)に帰る時、富さんの知り合いやもちろん、富さんを紹介してくれた江戸っ子の中の江戸っ子上司(サラリーマン時代の重役)達が万歳で送ってくれた。
その時に富さんから、「お前は俺の知ってる誰よりも江戸っ子だ!だから俺がお前を江戸っ子と認める。お前は今から江戸っ子だかんな!!忘れんなよ!北国で暮らしても江戸の下町根性を忘れちゃいけね~~ぜ!!」
そういってみんなで送ってくれた(涙)駅前商店街の町内会の会長たちが集まってくれて万歳三唱、おいらは泣けたぜ!! 30年経った今でもお付き合いをさせて頂いている。
おいらの上司は超アイビーで、超江戸っ子だったぜ~~。おいらはいつも甘えっぱなしで、さんざん飲ませてもてもらって、食わせてもらってタクシー代までもらって帰宅してたぜ!!
上司には娘さんがいて、おいらにも娘ができると、捨てないで取っておいてくれたお下がりを娘に与えてくれた。
どれもほとんど着てなくて、新品に近いものばかり。ほとんどがラルフローレンだった。たまに年季の入った VAN-MINI があった。とにかく超アイビーな上司だけあって、良いものばかり。
奥様もうちの娘のことをいつも気にかけてくれた。しかもサイズ別で水着まで貰った。まだまだ給料も少ない頃で、気にしてくれてたんだと思う。長女はどこの金持ちの娘かと思うほどオシャレになった。
うちの「かかあ」もかなりのアイビー、アメカジ、トラッド系だから、娘が三流の付属幼稚園に入園するときもオシャレさせていた。
このままだと、まだまだ家族の話になりそうなので、この辺で本題に入りたいと思う。
これぞ自分勝手なアイビー
さて「IVY」の話なんだが、アイビーと言う言葉を私が知ったのは中学2年生辺りであったと思う。どうやら洋服が気になって少々生意気になってきた頃だった。
確かVANのTシャツで「We Love Sports」だったか、「73スポーツコミュニケーション」だったかは忘れたが、それが私にとってのVAN(IVY)の入口であった。
VAN=IVY。高校に入学してようやくその関係式に気が付いたのだが、何がアイビーで何がアイビーではないのかを知るまでには、かなりの時間を要した。
一言で言えと言われると中々難しいのだが、アメリカに行くことでその答えは何となくは分かった気がした。
しかしながらそんな学者的な話は面白くないので、どんな高校生でどんなアイビー少年だったかを話する。
今でこそアイビーとはアイビーリーグの学生がするファッションの事などと、面白くも何ともない答えを言ってしまうが、高校生の頃の私はアイビーに関する自主学習を一生懸命していた。
ふと気が付くと服の素材であったり、柄であったり、名称であったり、コーディネイトであったり等を暇さえあれば、ノートを取りながら学んだものだ。学校の勉強もこれくらい熱心にすれば.....(笑)
机にはIVYとかVANとかを彫刻刀で掘って、そこに消しゴムのカスを突っ込み色を付けたりとかもしていた。
教科書は「MEN'S CLUB」である。IVYは○○でなければいけないとか、このシャツには何を合わせるのかとか、バイト賃で「次に購入するものリスト」の見せ合いなどもやっていた。
金持ちの倅は別にその中に入ってこなくとも、翌週にはちゃっかり俺たちの話題のアイテムを着ていたりもした。
あいつもアイビーだったんだな~~~!!!こんな言葉の使い方にまでアイビーが表現されていたのである。
「あいつ結構アイビーだな!」 「あいつも最近アイビーでないか?」 「3年の〇〇先輩、すげえ~~アイビーだよな!」 「先輩の彼女もバリバリアイビーだったぞ!」 こんな会話が飛びかっていた。
あの時代に戻って当時の高校生に尋ねてみたい。「バリバリアイビーって何?」
そういえばこんな事があった。私の結婚式の時に東京から来てくれた上司が挨拶してくれて、それを見た同級生達が、「おまえの上司すげ~~アイビーだな!!」みんな上司達のことを羨望の眼差しで見ていた。
今思えばアイビーなどではなくてブリティッシュトラッドで、髪型は七三のアイビーカットだったのでオーラを感じたのだろう。(素人がプロの姿を見たからそれは驚くはずである)
とにかく授業中に限らず暇な時は、アイドルや女優、洋服や音楽の話で持ち切りであった。その当時はアイビーソングなるものがあるなんて知る由もなかった。
フォークソングも流行っていたし、ロック系はジミヘンであったりロッドスチアート、クラプトン、そしてクールスやキャロルなども人気であった。
「クールスはひょっとしたらアイビーかもね?」そんな会話にもアイビーが登場していたのだ。
上司から居酒屋でアイビーレクチャーを受け、アイビーソングなるものを初めて知った。まあ実際にはアイビー世代が聞いていたアイビースタイルのグループが歌う、アイビー的な音楽の事である。
ここまでくるとアイビーとはどこにでもどんな場面にでも登場してきそうである。
ブラザーズフォー(通称ブラフォー)を初めて知った時には、どこかで聞いた事があるな~くらいの感じだったが、まさかこんなスタイルでこんな髪型で歌ってるとは! それこそバリバリのアイビーやんか!
高校生当時にブラフォーを知っていたなら、大変なことになっていたかもしれない。アイビーが聞く音楽はジャズであるというのも、多少は理解できるが、この出で立ちには敵うものはない。
これをアイビーソングと言わずして何をアイビーソングと言うのか? ブラフォー恐るべしである。
いまから30数年前と16年ほど前にコンサートにて、実際に見た事があるが、何故だかその頃のブラフォーはアイビーではなかった。
しかしながら会場にお集まりのファンの方々は、スタジアムジャンパーであったり、スウィングトップであったり、今でもアイビーであることに誇りを持っているというか、スタイルを貫いているかのようであった。
まさに団塊の世代は筋金入りと言うか、すべてに対して熱いものを感じる。三島由紀夫VS東大全共闘の内容の映画が先日テレビで上映されたが、大学構内で熱く三島由紀夫に語る学生達がアイビーの服装だった。
マルクスレーニンを唱えてもアイビーでは筋が通らない。やはりアイビーならば資本主義と民衆主義でジャズかブラフォーなどのカントリーやフォクソングを聞かなければ、本物のアイビーとは言えないのだ。
話はまた高校時代に戻るのだが、1年生の時だったか2年生の時だったかは忘れたが、凄い映画がやってきた。監督・脚本がジョージルーカス、製作はフランシス・コッポラである。
ジョージルーカスと言えば「スターウォーズ」や「インディージョーンズ」が代表作だが、実はこのアメリカングラフティーで一躍有名になったのだ。
時は1962年、カリフォルニア州のモデストという田舎町が舞台で、高校を卒業してそれぞれ別の道を進む事になる若者たちが、共に過ごす最後の一夜を描いている。
アイビースタイルやロッカースタイルの若者達が登場する。私が高校生時代もリーゼントヘアーの輩は多かった。
と言うよりもこの映画の上映を境に、リーゼントが増えて来た様な気がする。不良的高校生でクルーカットだったのは私だけだったような気もする。
それまではクルーカットやアイビーカットで、もみあげも斜めにカットしていた者が、翌年あたりからリーゼントに変わっていったのだ。
極小数ではあるが、高三になって車の免許を取ったものが、駅前を流していたりもした。アメリカングラフティに憧れて、髪型やスタイルは似せる事は出来ても、車だけはそうはいかなかったのだが。。。
車から流れる曲は、ロックアラウンドザクロック、シックスティーンキャンドルなどのアメリカングラフィティで流れていたオールデイズのナンバー。カーオディオなどはもちろんなく、もちろんラジカセ持参であった。
とにかくこの頃に、マドラスチェックのボタンダウンシャツや、サドルシューズやキャンバスのデッキシューズが世界で最もカッコ良いサマースタイルだと思うようになった。
ボタンダウンのシャツの中には、白の丸首のTシャツを着る。コットンパンツはプレスがかかっていなくてもカッコ良い事も知った。シャツは裾を出しても入れても、リボンベルトをしなければならい事もこの頃に覚えた。
アメリカングラフティーで学んだ着こなしは同級生には内緒であったが、私と同じように着こなす奴もいた。やはりアメグラに侵されていたのだ。
そんな格好を自分たち流に真似して作り上げたアイビーこそが、これぞ自分勝手なアイビーだったのだ。
サラリーマン時代のアイビーな話
新入社員の頃、商品部が原宿にあった。VANが倒産して3年ほどたった頃、まだ商品部の階段の踊り場からは、VANの看板が見えていた。私の会社はアイビー好きな方ならだれでも知っている会社である。
私の勤めていた会社とVANとの関係はかなり深く、新規事業を立ち上げる事になった時、VANから数名の先輩がやって来たりもした。
私が入社した頃はそんなにアイビーバリバリ感は無くなっていたのだが、重役には有名な島津さんがいた。
島津さんと言っても分からないだろうが、ペンネームを言えば皆さんも知っているはずである。元VANの部長で「TAKE IVY」にもかかわった方である。
私の直属の上司はVAN出身ではないが、その奥さんがVANのOBであった。その奥さんには大変世話になり、よく怒られもした。仕事上の事ではなくて私生活でのことである。
当時正社員になる前に三カ月ほど研修期間があり、その期間の給料を手渡しで貰っていた。自分でそうしたのだ。正社員になるまでは、手渡しで欲しいと自分で言ったようだ。
あまり覚えていないが、銀行から引き出す事が面倒だったのだと思う。
その為にすぐに給料を使ってしまい、月の後半はいつも上司の奥さんに飯を食べさせてもらい、さらに前借をもしていた。。。晩飯をねだりに行くと、上司のお父さんとお母さんにすごく可愛がられたのだが。
しかし、それが2カ月続くと奥さんからヤキが入った。「銀行に口座を作りなさい!!」「普段必要な分のみ財布に入れなさい!!」なかなか厳しく説教された。本当にダメな子なんだから~~~と呆れられたものだ。
上司の家には古いVANのポスターが張られていた。私が寝泊りさせてもらっていた部屋には、ほぼゴミ状態にVANのノベルティーも置かれていた。上司に聞くともういらないから欲しいなら持って行けと言われた。
この上司は先ほど話に出た、私が世話になった江戸っ子重役の大学時代の後輩で、体育会出身者によくある就職活動もせずに、気が付いた時には就職先がなくて、先輩に頼んで入れてもらったクチである。
そんな先輩の江戸っ子重役も大学時代に、コカ・コーラとVANと2社から内定をもらっていたのだが、VAN とR社がジョイントベンチャーを組むからお前はVANに入るか、それともR社に行くかと、VANの先輩のHさん(後、R社企画課長)に尋ねられて、R社に行くことを決めたのだ。
とにかくVANとR社は深い関係であった。今思えば人身売買みたいなものである。でもまさかその後にVANが倒産するとは、日本中の誰もが知るよしもなかった事だ。
ただ現場にいた諸先輩方は、VANもソロソロ危ないぞといつも感じていたそうだ。
私がR社に入社した頃はVANのヴァの字もなく、商品部に半分捨てられそうになっていたノベルティーが箱の中に入っていて、貰って来ては友人達にあげたものだ。
自称アイビー少年であった私は、そんな悲しい現実を突きつけられ、かなりアイビー熱が冷めていったが、R社はVANのOBやOGが大勢いたのでアイビーネタは夜の授業で嫌なほど聞かされた。
ジーンズはアイビーの敵なのか、ラングラーがアイビーなパンツを売れなくさせたのか、アパレル業界においての線引きがないためアイビーもトラッドもアメカジもないのだが、新種のDCブランドはこの先輩たちには嫌われた存在であった。
つまりどこかで、VANでありアイビーでありトラッドが基本にないものを、評価することはご法度だったのであろう。
そしていつの間にやら、VANとは何ぞや、アイビーとは、男とは先輩後輩とは、そんな所にまで話は進むのであった。
いまでもVANの先輩達やR社の先輩達と交流は続いている。この業界は必ずどこかで、VANの先輩達とかかわることが多い。久しぶりにあっても昔のままだ。
歌うのは湘南ソングに加山雄三、フォークソングにカントリー、着てる服装はイタリアであってもマインドは常にVANのアイビーなのである。
アイビーな先輩達との思いで
VANが倒産すると、ここぞとばかり色々なメーカーやブランドやショップが登場してきた。
シャンタルデュモなどというコジャレた名前の会社が出てきたり、WAY-OUTというブランドがロゴ入りトレーナーを爆発させたり、ボートハウスと言うショップが正ちゃん帽を流行らせたり、昔のアイビーとは少し違うが、流れは確実に再びアイビーであった。
プレッピーブームと言った方が正しいのかもしれない。
私がR社に入社した頃は、とにかく消費が凄かった。Top-Siderというデッキシューズが売れに売れ、クラークスのデザートブーツやワラビーが秋には大爆発した。横浜あたりではまだハマトラが流行っていた。
売れ筋ナンバーワンの女性雑誌は「JJ」、同僚の女の子もストレートヘアーで浅野ゆう子風であった。浅野ゆう子といえば、SHIPSやBEAMSも「JJ」でかなりの恩恵を受けたと思う。この頃からトラッドメーカーは勢いをつけるのである。
R社のアイビーな先輩達は、自社ブランドはほぼ誰も履かずに、アメリカならばジョンストンアンドマーフィー、フローシャイム、オールデン、英国製ならばチャーチ、グレンソン、クロケットアンドジョーンズ、エドワードグリーンなどをこぞって履いていた。
R社の専務は、ジョンストンマーフィーを評価していて、ライセンス生産のチヨダのジョンストンマーフィーやジャーマンを気に入って履いていた。
とにかく自社のRブランドを履いていた先輩はIさんだけだったかもしれない。
後にこの専務に非常に可愛がられ、専務室によく呼ばれて奥さんにとコラーゲンクリーム(系列会社がコラーゲンクリームを製造していた)を土産にもらったり、コーヒーを専務自ら入れてくれた。
「僕のコーヒーは美味しいんだよ~~遠慮なく飲みなさい」「はい!!専務!!ありがとうございます!!」まるで映画の植木等をいつも演じていた! 先輩たちからは、何を話だの、何しに来ただの、根掘り葉掘り聞かれたものだ。
おしゃれな先輩はタニノクリスティーなども履いていた。タニノクリスティーはIさんが仕切っていた。
六本木には専門店があって松坂慶子は俺のお得意様だ!と自慢して、何度も松坂慶子のスカートの中を見ていると自慢していた。
こうなってくるとアイビーも何もどうでもよくなってくる。その先輩は一ヶ月のイタリア研修で、実際にイタリアのタニノクリスティーの店で販売研修を受けていた為、松坂慶子さんもすっかり気に入ってたのだろう。
ロングブーツなどは色違いで購入してたらしい。凄い金額である。
すっかり横道にそれてしまったが、アイビーなシューズと言えば「G.H.BASS」のコインローファー、「G.H.BASS」が少し下火になってきた頃、その代わりにアメリカンフットウェアーというブランドを会社は結構押していた。
私もどちらかというとBASSよりもアメリカンフットウェアー派だったかもしれない。
プレッピースタイルが話題になって、そしてラルフローレンが追い風を受ける時であった。個人的にはマークが付いたものはあまり好きではないのだが、世の中はワンポイントマークの再来と言われ業界は盛り上がった。
ラルフローレンはライセンス方式を採用していたので、アメリカ物はなくてライセンスで生産されていた。
ジャケット、スーツはオンワード樫山、ニットはナイガイ、シャツはハミルトン、レディースは東京スタイル、靴は日本製靴、ネクタイは菱屋,、そんな感じだった。
ある時、部長に連れられて設計部に行くと、I課長がサンプルを見せてあげるから着いて来いと言う。奥ばった所にある狭い隙間の奥には、所狭しと片足のサンプルが山積になっていた。
初めて見たラルフローレンの、ビーフロールで少し女性っぽいきゃしゃなローファーは、バーガンディーの色で最高の雰囲気だった。
これ真似して作るんですかと聞くと、I課長は笑って怒った。そんなわけないだろう。とは言ってもライセンスはしょせん真似じゃんなどと心に思ったが、設計に携わる上司には言えるはずもなく、そうですよね、と言ってその場所から去った。
I課長と商品部の部長はかなり仲が良く、いつも訳の分からない話をしていて盛り上がっていた。二人とも七三分けのアイビーカットだが、英国スタイルでびしっとネクタイを締めて、ちらっと覗くサスペンダーが格好良かった。
先輩方の会話の中には、アイビーだとかトラッドだとかの話が登場して来た事はほぼない。ただ飲んだ酒の席では必ず定番の、少年時代のアメリカ兵の話と、大学時代の話の中にたまに登場してきた。
加山雄三さんが藤沢でなんとかでとか、田中邦衛さんはいつもどうのこうの、日大の校舎は若大将シリーズのどうのこうの、とそんな話は何となく理解できた。
居酒屋に行くとT部長とK第二商品部の部長がいた。そしてVANの先輩たちがいて昔話で盛り上がっていた。確か富ヶ谷の交差点近くの一風変わった居酒屋で、会社の野球部の会合などでも使っていた。
三田明の腕が長くどうのこうの、マイク真木がどうのこうの、高倉健さんがどうのこうの、青江のママはどうのこうの、帝人メンズショップの誰誰がどうのこうの、ニブリックは失敗でSCENEは何とかでPXに石津会長がくると窓ふきはどうのこうの。。。
それが終わると商品の話、セビルローから始まってジョンロブがどうのこうので、シャツの生地はなんとかで、昔のグレーフランネルがどうのこうの、、、当時は何を言ってるのかさっぱりわからなかった。
そしてお決まりの話は高倉健さんと長嶋茂雄さんの話、そして加山雄三さんの話、そして歌声喫茶でどうのこうので学園紛争時のどこどこ大学の誰誰がなんとかで、アメフトの何とかがどうので、ヴァンガーズのあいつはどこどこ大学でなんとか、そして最後は森山良子は可愛くて人気者で実力はそうでもなかった。
有名雑貨ストアーの取締役のKさんに、ミスターVANと呼ばれてたアイビー業界ナンバーワンのKさん、そしてR社の第二商品部の部長もKさん、現レディースメーカーの代表もKさん、みんなKさんで、なんとみんなKentの営業マンだった。
有名雑貨ストアーのK先輩は違いました。
とまあ最後は思い出話に花が咲いてしまい、IVYの話はどこへやら。。。
まとめ
今から40年ほど前の話であるが、VANなくしてIVY語れず、R社なくしてIVYは育たず、だった事は先輩の話を聞くことによって理解ができた。
最近はコロナの影響もあって、先輩達もみな静かに暮らしている。先日VANやR社のノベルティーを作っていた吉田三郎商店の社長の話に、業界の先輩と電話で盛り上がったが、たまに声かけると今でも飲もうという事になるそうだ。
みな70歳前半から後半になって来ているのだが、あの時代の事はやっぱり懐かしく、笑顔で語るそうだ。過去を振り返るものに成功者はいないというが,それで良いではないかと思う。
先輩方は若くても70歳、大先輩は86歳、イラストレーターの穂澄さんは90歳。2~3年ほど前に鎌倉シャツに用事があってエレベーターを降りると目の前に島津重役が立っていた。そう、皆さんがご存じの「くろすとしゆき氏である。くろすはペンネームで島津が本名、詳しくは長くなるので割愛する。
とにかく座れよと言われた。目の前には鎌倉シャツの貞末さん(VANのOB)とくろすさん、そして一言、「懐かしいな~~あの時代良かったよな。俺まだ働いてんだよ。君の名刺くれよ、まだ会社にいるのか?」
いいえ、訳あって会社を辞めて貿易屋やってます。普段はアメリカと北海道にいます。遊びに来てください。
趣味の話やフライフィッシングの話になってそして最後に一言、「俺もう80超えてるんだよ。祥介(石津謙介さんの長男)さんと同じ年だよ。」
凄いと思った。今でも現役で働いている。この時、VANのもんもんを背負ってる先輩達には敵わないと思ったのである。
今回も長い時間お付き合いありがとうございました。また機会がありましたら業界の話をしますのでよろしくお願い致します。