「ねえ、本当にボスは辞めるの?辞めてしまうの?会社を辞めれるの?」妻が寂し気に私に問かけた。
朝はお互い忙しく、妻は次女を抱きながら私にコーヒーを注ぎ、CNNと地元の番組を交互にチャンネルを変えながら、朝の交通状況を私に知らしてくれていた。
私は歯を磨き髭をそり、ネクタイを締めて書類を鞄に入れ、長女の話を聞きながらあいまいな返事をしてると、手を止めて私に娘の話をちゃんと聞きなさいと何度も注意された。
長女は少しクールで落ち着いていて、人の目を見てきちんと話をしていた。
昨晩ベッドでボスの事などを軽く話したのだが、妻のマーリーは子育ての真っ最中で疲れていた。
いつもなら私の話など半分も聞いていなかったはずなのに、さすがにボスの話となると眠気も冷めたようであった。
長女をプリスクールに通わせたくて、近所の奥様達に評判を聞きながら、ガールスカウトの制服のサイズ選びにも夢中になっていた。
プリスクールのことはボスの奥さんにも相談していたところだったのだが、会社を辞めるような話は一言も聞いてなくて驚きを隠せなかった。
「ねえ?それって本当に本当なの?」
「あ~~本当だよ、今日はボスのフェアエルパーティーがあるから帰りは遅くなるから」
「ねえパーティーはどこでやるの?ケンブリッジ?それともニューベリーポート?」
「あ~、ニューベリーポートだよ。わざわざボストンから行くんだぜ、信じられないだろ?」
「でもわかる気がするわ。パパスでしょ?」
「あ~そうだよ、パパスワグナーに6時に集合なんだ。今日は朝までかもね?」
「わかるけど無理しないでね。無理して帰ってこないでね。飲酒運転はやっぱり良くないわよ。」
「あ~分かってるよ!あまりにも大酒を飲むようだったら、どこかのモーテルにでも泊まるよ。」
「だけどあの辺の近くにはモーテルがないから、ゆっくり運転して帰ってくるよ。」
「絶対に無理しないでね。 最後までボスと一緒だったらボスのところに泊まらせてもらって、明日が本当に最後かもよ?」
私が独身の頃、いつもボストンで飲んでからボスの自宅のあるグロースターの自宅まで行き、さらに朝まで飲んで奥さんに送ってもらった事が何度もあった。
奥さんは散歩するために毎朝5時に起き、私はセーラムの自宅まで送ってもらい、目覚めたら飲みなさいとスープを鍋ごと渡してくれた。
昼頃に起きると二日酔いで頭がガンガンしていたが、奥さんの作った特性スープを飲むと不思議と頭痛がおさまった。
ニューベリーポートには、ボスの親友でレストランをやっているトーマス・ワグナーさんの少しフレンチなレストランがあった。
店名は「パパスワグナー」、トーマスさんがヘミングウェイの様ないでたちかと言うと全く違い、トーマスさんのお爺さんがヘミングウェイを愛していたらしくて、「パパスワグナー」と名を付けたのだそうだ。
「パパスワグナー」は少し分かりにくい場所にあって、地元の者でも知らない人は多かった。私は休日になるといつもニューベリーポートに行っていた。
お気に入りのピザ屋があって、しょっちゅう顔を出していた。
結婚してからも妻のマーリーと娘を連れて何度も通った。下の娘が生まれてからは少し遠のいているが、それでも月に一回は必ず行っている。
この町は古くからの港町で、独特のにおいがあった。以前に日本人の観光客と出会い、ここのピザ屋を案内したこともあった。
奥さんはアメリカ人で、ご主人は日本人。水産関係の仕事をしていて世界中を回ってると聞いた。少し自慢げに紹介したピザ屋さんは、アンカーと言って錨が目印のお店だ。トマトベースのピザが有名で、全米のピザ好きも集まってくると言うお店であった。
このピザ屋からパパスワグナーは目と鼻の先にあり、トーマスさんとも何度もここで会い、お互いに驚いたりもした。
トーマスさんは私のことをいつもマイキーと呼んだ。どうしてなのか今も不思議だ。私はトミーと呼び、ボスの親友なので私もトミーの弟分と皆から思われた。
トミーは大学時代ボスと同じフットボール部のクウォーターバックだった。ボスはランニングバックで、二人でかなり点を取ったといつも自慢していたが、その時のアイビーリーグが強かったのか弱かったのかは誰も口にしない。
当時のハーバード大学は今とは違い全寮制で男子のみ、隣の敷地にラドクリフと呼ばれる女子大学があったが、現在はハーバードに統合されている。
ラドクリフと言えば、我社の先輩達にはラドクリフ出身の先輩が多い。ポーラさんもその一人だった。ポーラさんはボスの先輩だった。
ポーラさんが花束を用意して、マイクを私の地元の先輩でもあるタイラーさんに渡した。
なんとなく下を見ると、私の目の前にピザがあった。よく見ると「アンカー」のピザだったこともあり、お腹のすいていた私は、こっそり一枚口にしてしまった。
モグモグしてる最中にパーティーは始まった。タイラー先輩は一瞬マイクの調整にしくじりながらもあせらず、ボスとの思い出やボスの今までの実績についてみんなに話をした。そしてそのマイクをホーリー先輩に渡した。
ホーリー先輩は社内一のエスケープマンであり、ボスに迷惑をかけた社内一のダメ社員だったが、その反面シャイでナンバーワンのトップセールスマンであった。
ホーリー先輩は私の一番の仲良し先輩で、よく一緒に仕事の途中にさぼって飯を食べに行ったりした。
ホーリー先輩は一滴も酒を飲めないため、いつも後輩の私を部屋まで送ってくれた。仕事の話など一度もしたことがないのにたまに、お客様を大切にしろよとアドバイスをくれたりした。
後輩を育てるのが下手な人で、自分の部署にいるよりは他の部署で油を売って、ナンバーツーに手柄を与えようと気を遣うのだが、それが後輩達にはまったく理解してもらえなかった。
ホーリーはまたさぼって会社に来ないなどと、ナンバーツーの先輩はいつも私に愚痴っていた。
ホーリー先輩にとってボスとの思い出は、中々深いものがあったようだ。
ホーリー先輩がまだ若い頃、上司のマネージャーと馬が合わなくて、2ヶ月も会社に来なかったことがあった。
それをボスは役員達にはバラさずに、病気の為だとか今日は何々だとか言いながら、かばっていた事があった。
ホーリー先輩は会社に来なくても数字はいつもナンバーワンであった為、誰も文句は言えなかったのも事実である。
私以上にボスに迷惑をかけたスーパーセールスマンであるホーリーが今、ボスに何か一言二言話しかけているがこっちには全く聞こえない。
BGMがフェードアウトしてレストランの明かりが暗くなり、そんな二人にスポットが当たり、レストランのBGMがフランクシナトラの「マイウェイ」からプラターズの「煙が目に染みる」に変わると、ホーリーは突然に泣き崩れて膝が抜けて倒れそうになった。
第6話に続く