【アメリカ A to Z】と題して、A~Zまでの頭文字で一つずつ、アメリカのモノ、ブランド、人物などをご紹介しています。「アメリカ」「アメカジ」好き親父の嗜好の強い内容となっておりますが、今回は、V、W、Xについて書いてみたいと思う。
目次
- 「V」VAN
- 「W」Wrangler
- 「X」マルコムX
- まとめ
03/12/2022
「V」VAN
「VAN」と言うと誰もが想像するのは「VANJACKET」だが、それは日本での事である。
アメリカでVANと言えば車のことで、アメリカの生活においてVANは外せないのである。
単なるトランスポートとしての意味合いだけではなく、そこにはアメリカ的生活感までもを含む「車」と言って良いだろう。
要するに仕事としてのデリバリーバンではなく、家族との時間を共有する為の乗り物が「VAN」なのである。
一般的にアメカジ・アイビーファンに好まれるVANはフォルクスワーゲンの「TYPEⅡ」であるが、ここではアメリカ製にこだわりたい為、TYPEⅡの事は書かない。
そうするとそのライバル車として有名なのは、フォード社のEシリーズである。アメリカではコマーシャルワゴンとか言われている。
元々はアウトドアー用などではなく、仕事で使う社用車として開発された車だが、売る側もそれだけに固執する事はなかった。
私は仕事の関係上、現在のEシリーズもよく運転したものだが、ライバル車がフォルクスワーゲンである為、かなりサイズなどを研究したように思われる。
今ではフルサイズと呼ばれていて、それより少し小さなものをミニバンと呼んでいる。私の仕事場からメーカーや運送屋を行き来するにはもってこいのサイズである。
ミニとはいってもフルサイズより小さいというだけで、コンパクトという程ではない。そんな話をくどくどしてみても面白くないので先に進むとしよう。
現代のVANの話では何も面白くないと思うので、かの有名な「フォード・エコノライン」の話をしたいと思う。
ライバルはフォルクスワーゲンのTYPEⅡとシボレーコルベア、シボレーもなかなかうっとりするほどグッと来る車なのだが、かなり長くなるので割愛したいと思う。
さてエコノラインの形から説明をしたいと思うのだが、これをイカスとかクールだとか思うものは誰もいない。それどころか「たれ目」で「弱々」しく、なんとも情けのない顔なのである。
しかしあの時代は誰もがキャンピングカーを夢見ていた。
いつかはキャンピングカーをと考えていたファミリー層や若者達に頑張れば手が届く、そんな希望をエコノラインは与えてくれたのである。
キャンパー達に愛され、サーファー達に愛され、ファミリーにも愛され、もちろん営業車としても。
直列6気筒のエンジンが運転席の真下に搭載されていた。
この後すぐ実用車としてのエコのラインにキャンパーコンバージョンが出来た。
1961~1967年頃、日本でキャンプをしながら旅をするなんて発想があっただろうか?
長屋に住むガキども(私)はリヤカーが最高だったぐらいで、親たちが車でキャンプに連れて行くなんて考えもしなかった。
1968年にフルモデルチェンジし、これがサーファー達の間で大人気になるのだ。
ヘッドライトがたれ目から丸目に変わり1979年には角目に変わった。フロントグリルヘッドライトに変更になった1968年モデルですでに、あの情けないが愛着のわく顔がなくなってしまったのである。
子供の頃に見たアメリカのホームドラマからイメージするアメリカンスタイルは、大きなテレビに大きな冷蔵庫、大きな食卓と暖炉に椅子、コリー犬にカブスカウトの少年、そして大きな車フォードファルコンとエコノラインが私のアメリカなのだ。
「W」Wrangler
Wranglerと言えばアメリカのジーンズメーカーとしてカウボーイ達に愛される代表的なブランドである。
今でこそアメリカで有名なジーンズメーカーは数多くあるが、昔からの3大メーカーと言えば「Levi's」「Lee」そして「Wrangler」である。
リーバイスが世界で初めてフロントボタンのデニムを生産したが、世界で初めてファスナージーンズを手掛けたのはラングラーであった。
現在日本においては、エドウィン傘下のリージャパンが販売権を保有している。
元々日本での展開は、VANの創設者の石津謙介氏が声をかけ、「ヴァンジャケット」「東洋紡」「三菱商事」の三社の出資によりラングラージャパンは設立されたのである。
代表は大川照雄氏、実質の営業のトップは私が尊敬する岡野興夫氏であった。岡野氏が広めたと言っても過言でない。またもやここにもVANが登場するのである。
アメリカでは、1947年に「ブルーベルオーバーオールカンパニー」からスタートする。
ミッションは実にシンプルで、世界最高の5ポケットデニムを作るということだった。
創業者のCCハドソンは東海岸で働く鉄道労働者の為に、最高品質の作業服を製造した。
しかし、オーバーオール(作業服)の需要はもちろんであったが、世の中はデニムを使ったパンツを求めていたのだった。
ここで少しだけラングラーの創立者のCCハドソンさんの話をするね
テネシー州のウィリアムソン郡のスプリングヒルファームでC.Cハドソンは育った。
1887年20歳の時に地元の繊維工場に就職し、工場が1904年に閉鎖されるまで働いた。
それからハドソンは兄弟のホーマーと工場の仲間を数人連れて故郷を離れ、ハドソンオーバーオールカンパニーを設立した。
場所はノースカロライナ州グリーンズボロのサウスエルムストリートにあるコーブラザーズ食料品店の上のロフトから事業を始めたのだった。
1919年にはハドソンオーバーオールの売り上げが急増したため、より大きな場所に移転し社名を「ブルーベルオーバーオールカンパニー」に変更した。
その後も順調に営業を続け1926年、ケンタッキー州のビッグベンマニュファクチャリングとブルーベルオーバーオールカンパニーは合併した。
その時の買収額はなんと、585,000ドルである。
ハドソンブランドは成長を続け10年後の1936年、洗濯時の収縮率を1%未満に減らした生地を特徴とする、スーパービッグベンオーバーオールを発表した。
業界の新しい基準が出来たのは間違いないことであった。このことは「BlueBell」が業界全体のリーダーであったことを証明している。
そして1年後の1937年、C.Cハドソンは亡くなった。
6年後の1943年にブルーベルは作業服メーカーのケーシージョーンズカンパニーを買収し、殆んど使われていなかったブランド「ラングラー」の権利を取得したのである。
1947年には現在の原型が出来、この時ラングラーの7つの特徴が確立されたのである。
「WATCH POCKET」「ROPE LOGO BUTTON」「SEVEN BELT LOOPS」「W STITCH」「DOWNWARD FACING SEAMS」「FLAT RIVETS」「THE PATCH」である。
ジーンズのベルトループは大半が5本であるが、プロロデオ協会のオフィシャルジーンズにもなったWrangler は、ベルトをしっかりとキープする7本なのである。
フロントの2本が離れた位置にあるのは、大きなウェスタンベルトのバックルの収まりを良くする為。
また11MWZや13MWZに採用されているブロークンデニムは、カウボーイたちがハードな競技をしても変形しにくい生地であるという事もラングラーの特徴である。
デニムは現在もそうであるが、ねじれやすい生地である。どこのブランドも同様で生地をまとめて裁断する為に、どうしても上の生地と下の生地でよじれが生じる。
裁断時に一枚ずつ型紙通りに裁断するのであれば別なのだが、枚数を重ね生地をまとめてカットすれば上下で均等にはならない。
それを合わせて縫製すれば当然変形してしまう。そもそもそれ以前にデニムはねじれやすい綾織なのだ。
ラングラーの織り方は他社とは違い、その時点でかなりねじれが防止されている。
ねじれていては格好が悪いカウボーイの正装用のデニムの上下は、ブロークンデニムであれば容易に作れるのである。
スティーブマックイーンの様な多分に神経質な方が愛用されていた事でも、いかに素晴らしい生地なのかが理解できる。
カウボーイの世界は、ただ単に馬に乗るだけではなく、時には美しさも表現しなければならない。
そんなカウボーイ達には、ウェスタンブーツにセンタープレスのきいたストレートやブーツカットのころ「Wrangler」が求められるのは必然なのである。
「X」マルコムX
Xの題材を決めるにあたり、かなりの迷いと不安があった。はたしてここに書くべきことなのか、いささか悩んだが書くことにした。
マルコムX、アフリカ系アメリカ人の急進的黒人解放運動指導者である。通称マルコムリトル、ネブラスカ州オマハにて産声を上げる。
バプテストの反体制だった彼の父親は牧師であったが、黒人には自由など存在しないと考えていた。
バプテストって何?
イングランド国教会の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの最大教派で、個人の良心の自由を大切にする教えを持っている宗派である。
父の名はアールリトル、母の名はルイーズ、ルイーズは美人で肌の色は薄く西インド諸島のグレナダ出身であった。
白人に媚を売り無理な仕事をするのではなく、自宅の敷地内に家庭菜園を作り家畜を育て自給自足の生活をしていたが、一家はKKKの標的にされていた。
KKKって何?
白人至上主義団体(正確には北方人種至上主義)のことで、かなり偏った思想を持つ団体である。
いつの時代でも差別は繰り返され、宗教やイディオロギーの違いによって殺し合いにまでもなっている。
無手の市民が警官に暴力を受けそれを誰もが止めることもできず、今でも白人と黒人の争いは続いているのである。
キング牧師とマルコムX、キング牧師が公民権運動を起こし、マルコムの強い言動により貧困層のアフリカ系アメリカ人に勇気を与えた。
両氏の考え方は少し違ってはいたが、黒人と白人の平等を共にと、この頃は考えていた。しかし後にマルコムは変わっていくのである。
彼が見たもの経験したものは、常に黒人は意味もなく差別を受けるという事であった。
1931年年ミシガン州ランシングの線路上で轢死体となって発見された父アールは、自殺と決めつけられ保険金ですらまともに支払われてないのである。
母ルイーズはアールの死後、精神がおかしくなり精神病院に送られ、マルコムの兄弟全員別々の家に里子に出された。
彼は裕福な家庭に引き取られ、学校にも通えて優秀な成績を収め、学級委員長にも何度も選ばれたが、教師からは黒人はどんなに頑張っても偉くはなれないから、手先の器用さと人当たりの良さを利用して大工をめざしたらと勧められたのである。
希望の持てない少年時代をへて気が付けば犯罪に手を染め、20歳の時には懲役8~10年の刑を宣告された。刑務所の中で彼は、宗教や哲学を学び多くの知識を広げ「イライジャ・ムハマンド」の教えと「ネーション・オブ・イスラム」の考え方に共鳴したのである。
1952年に釈放されるのだが、その時、ネーション・オブ・イスラムが後に敵となり、彼らに暗殺されるとは思いもよらなかったであろう。
どうしてXなの?
1952年9月、彼はネイション・オブ・イスラムから「X」の姓を授かり、そしてマルコムXを名乗ることにしたのだ。アメリカ黒人の性は、奴隷であった黒人の所有者が勝手につけたもので、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものなのである。
その昔、選挙権はもちろん結婚することも許されなかったり、例えアイビーリーグの優秀な卒業生であっても、黒人と言うだけで差別を受けていた時代もあった。
そんな人種隔離法があった時代に、64年ぶりにメジャーに昇格した黒人メジャーリーガー背番号42のジャッキーロビンソンは、迫害と暴力の毎日を経験しながら野球のプレーを通して黒人たちに勇気と希望を与えていた。
そしてついに彼は白人をも味方にして、すべての人から尊敬された。
彼の偉業を称え、メジャーデビューから50年目の1997年4月15日、背番号42がメジャーリーグ唯一の全球団共通の永久欠番となった。
今でも4月15日には、メジャーリーグ全選手が背番号42番を付けて試合をするのである。
私の大好きな映画、”タイタンズを忘れない”では黒人学校と白人学校が統合され、人種の壁を越えて一つのチームとなったタイタンズが、アメフトで州大会を勝ち抜き優勝するという感動的な実話なのだが、映画の始まりは黒人と白人の対立からであった。
同じ迫害を受けた黒人同士でありながら、どうしてこうも人生が違うのだろうか?マルコムは幸せだったのだろうか?本当の意味で黒人たちのヒーローだったのであろうか?
アメリカは何度も乗り越えてきてはいるがまた繰り返す。大統領が黒人になっても変わらないのはなぜなのだ?
ネブラスカに生まれたマルコムは悲惨である。父と叔父3人が白人の暴力において殺害されている。
自分たちへの差別を平等の原理で論じていたキング牧師とは異なり、彼は差別の中に黒人至上主義を作りたかったのであろう。負けたくなかったのだと思う。
まとめ
フォードのVANからはじまり、Wranglerのジーンズ、そしてマルコムX
アメリカには常にカッコよく素敵な成功者の物語が数多くある。俗にいうアメリカンドリームである。
VANに物を載せて仕事をしたり、キャンプに行ったり子供達を旅に連れて行ったりと幸せを運ぶ車や、労働者のためのタフな服であったものが、いつのまにか素敵でおしゃれな、人々に喜ばれるものになって、物は人が作りその時代を変化させて人々に喜びを与える。
物では出来るのに人では中々難しい。どんなに世の中が進歩して目的地まで多くの人々を乗せて、短時間で飛ぶ飛行機やロケットが出来ても、その座席に格差があっては、何が進歩なのか幸せなのか意味がない。
私たちは本当の意味で人の幸せを考えられるような人間に、ならなければいけないのではないだろうか。
今回も大変長文になりましたが、最後まで読んでいただき感謝いたします。