【アメリカ A to Z】と題して、A~Zまでの頭文字で一つずつ、アメリカのモノ、ブランド、人物などをご紹介しています。「アメリカ」「アメカジ」好き親父の嗜好の強い内容となっておりますが、今回は、M、N、Oについて書いて行きたいと思う。
目次
- 「M」Mcdonald's
- 「N」NEW BALANCE
- 「O」ORVIS。
- まとめ
「M」Mcdonald's
「M」が思いつかない。しかも誰もが知ってるものと考えるとなかなか出て来ない。ふと気がつくと凄く身近にマクドナルドがあった。
関東方面では略してマックと呼ぶが、関西方面ではマクドと呼ばれたりもする。面白い事にフランスでは隠語の関係で、マックとは呼べずマクドと称されているらしい。
肝心のアメリカでは「マクドノー」と言ったほうが通じる。正確に言えば「マックダナー」なのかもしれない。
ハンバーガーは日本でいうところの、手軽に食べられる蕎麦・うどんや牛丼、おにぎり等に匹敵する。ジャンクフードなどと言われるが、そもそもジャンクフードとは何か?
JUNKと言えば本来、ガラクタを意味するが、ガラクタの食い物って何だろう?調べてみると、 高カロリー・低栄養価の食べ物がそうらしい。
いわゆるバランスが欠けていて食べる価値がないものであるが、それを言ったら食べるものが無くなってしまう。
まあ、そんなところを突き詰めても意味がないので本題に入るが、ハンバーガーは今やアメリカ人だけの物ではない。世界中どこにでもあるし、日本においては無い所が見つからないくらいだ。
私は普段アメリカに居る事が多いのだが、朝飯を食べようと思うと手っ取り早いのが「朝マック」だ。
私の場合はネイティブな日本人であるから、目玉焼き定食のほうが嬉しいのだが、若者たちにおいては圧倒的にマクドナルドの朝マックに軍配があがるのである。
日本マクドナルドの第一号店は1971年に銀座に出来た。上が当時の写真であるが、ミニのワンピースがちらほら目立つのは流行っていたからなのであろうか?
当時日本の大人達にはあまり理解されないハンバーガーであったが、初めに飛びついたのが若い女性の方々で、その女性達につられて鼻の下を長くした野郎どもが、、、それから子供達を巻き込みファミリー層へと、なんとも賢い商法である。
創立者は藤田 田(ふじた でん)氏で、自分のことをユダヤと言っていた。戦後GHQで通訳をしていた頃にユダヤ人と知り合い、色々学んだのだそうだ。女性の時代、子供の時代をこの時にすでに予感していたのだ。
彼はマクドナルドを日本に広め、トイザラスも日本に紹介した。まさしく女性・子供商法の第一人者である。さて話が藤田 田になりそうなので本題のマドナルドに戻そう。
日本のマックしか知らなかった私は、アメリカに来て驚いた。藤田 田さんにはとても失礼だが、日本のマクドナルドと全く味が違うのだ。
先ずは、バンズ(パン)がフカフカで、めちゃめちゃ美味しい。そしてパティ(肉)も熱々で肉汁がしたたり落ちる。
ポテトも熱々でカリカリなのである。アメリカは非常にレベルが高い。バイトの子でも非常に厳しく管理されているのだと思われる。
日本で花を咲かせたマクドナルドに足りないものは、温度であることに間違いない。また横道にそれてしまったが、マクドナルドの歴史はかなり古いのだ。
1937年にマクドナルド兄弟は、ニューイングランドでは商売が難しいと感じ、チャンスを探すためにカリフォルニアに移った。
カリフォルニアのサンバーナーディーノで、マクドナルド兄弟は、15セントのハンバーガー、シェイク、フライドポテトを含む限定メニューを備えたスピードサービスシステムを完成させたのだ。
ビッグマック、チキンマックナゲット、伝説のエッグマックマフィン。それらはすべて、ホットドッグとバーベキューのドライブスルーレストランから始まったのだ。
アーチのモニュメントに大きなマクドナルドの看板を見ると誰もが安心する。それは食べようと、食べまいと関係なくお腹がすいた時には近くにマックがあるから安心だ。
そんな気持ちにさせてくれるのだ。それはアメリカ人なら誰もが持ち合わせている感情である。
規模が多少違うが、日本でその発想を上手に真似したのが牛丼屋さんであったり、その他多くのファーストフードの看板ではなかろうか?
最後にマクドナルドの歴史を簡単にまとめるね
1937年 マクドナルド兄弟がホットドッグスタンドを開始して外食産業に参入。
1940年 サンバーナーディーノにバーベキューレストランをオープン。この店舗が後のマクドナルドの原点になる。
1948年 マクドナルド兄弟はバーベキューレストランを一旦閉めて、ハンバーガーとミルクセーキのレストランに変更するため、「スピード・サービス・システム」「工場式のハンバーガー製造法」「セルフサービス」の仕組み等を考案し、同年12月に再オープンさせたのだった。
これがマクドナルド兄弟のハンバーガーショップ第1号店である。
1954年 旅行用電化製品のセールスマンであるレイ・クロックがマクドナルドに訪れ、この小さなハンバーガーショップにミルクセーキマシンが必要だと訴えた。
1955年 レイ・クロックはマクドナルドをフランチャイズ化する権利を得て、イリノイ州シカゴの郊外に彼の最初のマクドナルド、おそらく現代のスタイルのマクドナルド1号店をオープンさせた。
細かい事を言うと色々あるのだが、大体はこんなところである。
マクドナルドはおそらく、コカ・コーラやミッキーマウスと並ぶアメリカの代表的なブランドなのである。
「N」NEW BALANCE。
アメリカのNと言えば「NIKE」が真っ先に浮かんだ。だがよく考えてみると、私がアメリカで拠点としている場所から、「NEW BALANCE」のファクトリーはわずか30分程だった事を忘れていた。
今やNEW BLANCEと言えば、お爺さんやおばあさんからベビーに至るまで、日本でも幅広い層で愛されている。
不思議なことに日本はこんなに世界大国なのに運動靴文化が今一つに思う。今や世界のアパレルブランドにもなろうとしているアシックスくらいであろうか。
好き嫌いは別であるが、スニーカーと言えばやはりアメリカなのであろう。もちろんヨーロッパにも有名ブランドは多く存在するし、多くのスポーツ選手も愛用している。
日本でも月星、アキレス、日本製靴(現リーガルコーポレーション)などもスニーカーと呼ばれるものは生産している。だが皆さんの下駄箱の中には、ほぼないのではないだろうか?残念ながらゴム靴の生産は日本は苦手なような気がする。
スニーカーにはゴム屋がからんでいる事が多い。有名なのはコンバース、ケッズ、トップサイダー、ボールバンドなどと呼ぶブランドも存在したが、全てにゴム屋が関係している。
その他にもアメリカであれば、ナイキがありBROOKSがありVANSなどもある。今回「NEW BALANCE」を取り上げた理由は、近いことと少し思い入れもあるからである。
ここはマサチューセッツ州のローレンスという街だが、今から30年以上前に初めて訪れた時には驚いた。その昔はアイルランド系マフィアも多くいた場所。
初めて訪れたときは町中にガラスの破片、人は誰一人と歩いてはいない。パトカーのサイレンがダークなイメージをさらに悪くする。
そんな雰囲気であった。私の拠点としている場所からは、93号線を北上し、495号線をまた北上すると直ぐに、ローレンスの古い工場の街並みが見える。その中心部に位置したところにニューバランスの工場はある。
「NEW BLANCE」は誰が作ったの?歴史は?
ウィリアム・J・ライリーは、1906年にマサチューセッツ州ボストンにニューバランスアーチカンパニーを設立する。同社はアーチサポートと整形外科用靴を製造していた。何十年にもわたる一貫した高品質の職人技をもつ会社であった。
消防士や警官のような特殊な人たちには、高く評価されていたが、一般のマーケットに認められるまでには、70年近くもかかったのだ。
ニューバランスというネーミングは、ウィリアムライリーが裏庭で鶏を観察していて、3本指の足が体を最もよく支える事に由来している。
脚光を浴びるまでのその70年近くは、一体何をやってたの?
1930年代、「NEW BALANCE」は野球選手とトラック&フィールドアスリートの為に、特別に設計された整形外科用靴の製造を開始する。
このアスレチック市場への参入は厳しく、かなり苦労はしたのだが、新しいカテゴリーに移行したことが、同社のターニングポイントとなった。
後に「NEW BALANCE」はその名を「ニューバランス整形外科研究所」に変更し、科学に証明されたシューズとしてアピールしたのだ。
そして、アスレチックシューズの製造経験を「トラックスター」と呼ばれる新しいランニングシューズに適用し、1961年にデビューするのだった。
この靴のワイズはAAからEEEEまで幅広く製造されており、他のすべての競合ブランドとは一線を画した。
ニューバランスの新たなセールスは、驚くほどに上手くいった。この新しい市場は、整形外科用の靴やアーチサポート市場よりも、更に大きな可能性がみえた。
「私たちはあなたのための靴を作ります!」。トラックスターは、消費者に明確なメッセージを送った。
優れた職人技と細かいフィット感により、多くの人々を喜ばせ、多くのフォロワーを獲得するに至ったのだ。「NEW BALANCE」は少しずつ市場に広まっていった。
そしてそれは、ジェームズ・S・デイビスに所有権が変更された1972年に起きた。レクリエーション・ジョギングシーンが、1973年~1974年に大ブレイクし、ランニングが、アクティビティからライフスタイルへと変化した。
これに伴い、ジョギング愛好家の興味に応える雑誌や出版物が続々登場したのだった。「Runner's World」という雑誌は、その代表であり、当時の主要なランニングシューズを公平に評価していた。
1973年、「ニューバランス320」を履いたトム・フレミングは、ボストンマラソンで準優勝、同じ年のニューヨークシティーマラソンでは優勝を飾った。この事はもちろん世界中に発信された。
その年「Runner's World」のランキングでは3位に終わったが、翌年には他のすべての競合ブランドをぶっちぎり「世界最高のランニングシューズ」カテゴリーで1位を獲得し、他の2つのカテゴリーでも3位と7位になった。
「ニューバランス320」は、Terry Heckler氏によってデザインされたシグネチャー「N」ロゴを搭載して世に送り出された。ちなみにこのデザイナーは、スターバックスの女神のロゴも手掛けたデザイナーだ。
この「N」マークには内部での反発も色々あったようだ。ナイキの靴と間違えられるなど。しかし大人気となった「320」とのおかげで「N」ロゴも浸透していった。
さらに、広告のモデルに一般のお年寄りを起用し、このスニーカーは「すべての人の為のもの」という事をアピールし、年配者から若者まで誰にでも愛されるブランドを作り上げたのだ。
確かに普通のお年寄りが、イカしたスニーカーを履いてる絵は誰が見ても、好感度バツグンであろう。
そして、かのスティーブジョブズがこよなく愛した992、996、1300、1500。アメリカ製、英国製と色々ファンを魅了し続けている。
私は偏屈ものであるので、すでにアメリカでは廃番とされた1400番を今も散歩にて愛用している。「NEW BALANCE」の今でも続くスタイルには、古き良きアメリカ、特に東海岸を感じるのは私だけであろうか。
「O」ORVIS。
ORVISをご存じであろうか?おそらくこのブランドを知ってる方は、かなりのアメリカ通か釣りキチであると思われる。アメカジ好きの方でも、このブランドの事をご存知の方は少ないであろう。
皆さんご存知の、L.L.Beanと同様にストアーブランドであるので、アパレル等様々な物も生産しているが、しかしながら日本で知られているのは、もっぱら釣り竿のほうである。
もともとORVISは釣り道具メーカーであるため、日本ではそれ以外はあまり知られていない。
その歴史は古く "メールオーダーの父" とも言われていて、L.L.Bean や Eddy Bauerよりも古い。
1856年、Harles F. Orvisは、バーモント州マンチェスターに、フライフィッシングのタックルショップをオープンした。タックルとは釣りに使う道具全般のことをいう。
1874年、オービスが発売したフライリールは、リールに関する歴史家と言われているジム・ブラウンに、「近代的フライフィッシングリールの基準」となるデザインだと言わしめた。
リールにはライン(化学繊維)をまくのだが、昔のラインはシルクであった。
19世紀後半、エレガントに印刷されたタックルカタログは小さいながらも、全ての顧客の元に配布され、今日の巨大なアウトドア製品ダイレクトメール業界の先駆者となった。
チャールズの娘、メアリー・オービス・マーバリーは、1870年代にフライ部門を担当した。
1892年、彼女はフライのパターンに関する画期的な百科事典をを出版したのだ。
現在はこんな感じで登場している。アマゾンで購入できるので安心だ。この時代にすでにフライのパターンが確立されていたとは、フライフィッシャーであれば驚かないものはいないであろう。
メアリー・オービス・マーブリーがどこでこのような知識を得たのかは分からない。確か英語版しか無かったかもしれないが、お勧めの一冊であることには違いない。
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オービスはシアーズ、ローバックよりも20年以上前、南北戦争以前にカタログ通販をやっていたのだ。
多くの釣り竿を人々に知らしめ、またフィッシャーの為のフライフィッシングの学校までも設立したのである。
今の時代であればカタログは写真だが、当時の物はすべてイラストであるから、注文した顧客たちは夢を膨らませて商品が届く事を待ち望んでいたに違いない。
釣りに関しての話はまだまだあるのだが、アパレルに関してはOEMが多く、有名なブランドとのダブルネームであったり、別注であったりすることが多い。
家具、時計、カバン、シューズ、ウェーディングシューズはもちろん、ハンティングに関わるモノまで、何でも揃う。
意外な事にドッグベッドが有名であり、アメリカで初めて紹介したのが、ORVISである事はほとんど知られていない。
今でこそ、他社も扱うようになったが、当時のペット好きユーザーには喜びと驚きを隠せない商材だったに違いない。
アウトドアースタイルだけではなく、その世界観に興味がある顧客のために、ORVISらしい展開を今も続けている。アメリカならではのライフスタイルをこのブランドから感じることが出来る。
好きな顧客はすべてをORVISブランドでそろえていると思える。これこそがトラディショナルであろう。
「Battenkill Classic Duffle Bag」は昔から続く定番モデルで、今でも多くのアウトドアーマンやORVIS好きに愛されている旅行バッグである。
そんな私もORVISの愛用者である。アメリカの最も歴史のあるフライフィッシングメーカーであり、アメリカの伝統を今も守り伝えるアメリカの代表ブランドである。
短針で文字が隠れて見えずらいが、私が愛用しているORVISの腕時計である。
まとめ。
また今回も長くなってしまったが、ORVISに関しては釣り好きの方には少し物足りない様な内容になった気がする。もっともっとバンブーロッドやリールを載せてお話ししたかった。
しかしながら最も大切な事は、ライフスタイルの中の「ブランド」であること。「NEW BLANCE」もニッチな世界だけではなく、一般人が認知する世界を相手にした事が成功であったのだと思う。
それはマクドナルドについても言える。常に基本はあっても、時代時代に沿った考え方であったり戦略があるのである。
マクドナルドが自国だけの物でなくなり、世界のマクドナルドになったからこそ、みんなに愛されたのだと思う。
殆どのブランドは経営者が変わりM&Aを繰り返すアメリカビジネス、しかしながらきちんと先代の心が根づいている事が、凄く素晴らしいと改めて感じたのである。
長い文章、最後までお付き合い頂き、感謝致します。