アメカジ

アメリカ AtoZ J・K・L編

【アメリカ AtoZ】と題して、A~Zまでの頭文字で一つずつ、アメリカのモノ、ブランド、人物などをご紹介しています。「アメリカ」「アメカジ」好き親父の嗜好の強い内容となっておりますが、今回は、J、K、L、について書いて行きたいと思う。


目次

  • AtoZ 「J」J.F.K
  • AtoZ 「K」 Kelty
  • AtoZ 「 L」L.L.bean
  • まとめ

「J」J.F.K

Jの代表と言えば、この方以外は全く想像することもできなかった。JFKことジョン・フィッツジェラルド・ケネディ第35代アメリカ合衆国大統領のことである。通称は「JACK」一度は聞いたことがあると思うが、在任中にテキサス州ダラスで暗殺されたことも有名である。

高校生の頃、ダラスの熱い日という映画があった。しかし暗殺されたことや映画のことなどには全く興味もなく、J.F.K.はかっこ良くて、アイビーリーガーで、ヨットマンで、VANJACKET社やメンズクラブ誌が神様のように称えていたアメリカ合衆国大統領であった。

ウィキペディアより引用

彼にはマフィアとの黒い交際やマリリンモンローとのスキャンダルなど、切りがない位に噂話がある。しかしながら暗い部分が数多くあったとしても、私が気に入らない事はたったの一つ、有色人種の差別的行動に尽きるが、その話はここでは控える事にする。

ここでは、彼がなぜそんなにヒーローだったのか?その話をしたいと思う。

ケネディ家(初代)は英国から新地を求めて港湾労働者から身を起こし、マサチューセッツ州の上院議員を経てボストンの有力な民主党員となった。

裕福になったのち、ケープコッドに別荘を持つケネディ家の孫として生まれたジャックは、プリンストン大学に入学するが白血病の診断を受け、わずか6週間だけの在学となった。

治療を受け、健康体になった彼は、次はハーバード大学に入学する。水泳、ゴルフ、ヨット等の有名な選手となり、ヨットでは州大会で優勝もしている。しかしながら、病気は完治したわけではなかった。

この頃、旅行した二度のヨーロッパで世界の流れを掴み、卒業論文はミュンヘン会談について書いた。高い評価を受けた、この論文を父親に送った。そこから多方から手が加えられたこの論文に、保守派ジャーナリストのヘンリールースに序言を加えてもらい、出版するまでに至った。

【英国は何故眠ったか】という著書は、イギリスとアメリカで8万部売れ、その利益は、空爆で被害をうけた英国のプリマスに寄付をした。そして彼はハーバード大学を堂々優秀な成績で卒業したのだった。

アメリカが第二次世界大戦に参戦した。ケネディーはソロモン諸島のツラギ島に配属され、パトロール魚雷艇の艦長なった。そこに配属されるまでになるには、健康面で様々な苦労があった。

時、1943年8月2日午前2時半、魚雷艇PT109は日本海軍駆逐艦天霧に衝突されて船体は引き裂かれ、乗組員は2名死亡、数名が重傷を負った。日本軍が去るまでじっとしながら大破した木につかまり夕刻になって近くの小島まで泳ぎ避難。この時ジャックは負傷した仲間を命綱でもやいながら6キロを泳ぎ助けた。

この話は映画になった程、感動のヒストリーであるのだが、長くなるので割愛したいと思う。 

PT109の乗組員達 ウィキペディアより引用

彼自身はヒーロー扱いを苦手としていた為、その事は誰にも言わず隠していた。しかし軍からの情報を父親が知り、新聞に掲載した事で、彼は一躍全米のヒーローとなったのだ。この事が後の選挙に影響する事になる。

36歳の時にジャクリーンと結婚する。世界一素敵なカップルと言われたかどうかは知らないが、美男美女で良いとこの娘と息子で目指すところは大統領。いかにもアメリカンストーリーらしいが、本当になってしまったから凄い!

ケープコッドでの寄り添う写真は、誰もが憧れる一枚だ。故にVANジャケットは、ケープコッドストーリーを打ち出し、アイビーリーガーであるケネディのライフスタイルを拝借したのだ。

オックスフォードのボタンダウンとみられるシャツにポプリンの短パン、足元は裸足であるが、きっとオックスフォードのデッキシューズを愛用していたに違いない。この姿を当時の若者達が見たら、絶対に支持者になってしまうであろう。

仕事の時には決して見せない、アイビーリーグ出身スタイルのボタンダウンシャツ。しかしながら本来は根っからのアイビーリーガーである為プライベートでは、ついついボタンダウンシャツをさりげなくバンカラ風に着てしまうのである。

まだまだ書きたい事は色々あるのだが、切りがなくなる為この辺にして、最後に私が好きな名言で締めたいと思う。

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Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country. (国があなたの為に何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国の為に何を成す事ができるのかを問うて欲しい)

Do not pray for easy lives. Pray to be stronger men. (楽な人生を願い求めるな。より強い人間になれるように願いなさい。)

Only those who dare to fail greatly can ever achieve greatly. (あえて大きな失敗を出来る者だけが、偉大な事を成し遂げられるのだ。)

「K」 KELTY

1952年「ディック・ケルティ」は、500ドルの借金をして自宅のガレージで事業を始めた。

アウトドアー、キャンプ、山登り、そこに必ず登場するのがパッキングである。ものを詰める。何に詰めるのか?袋に詰めるのである。その袋とはバックパックである。日本では背負子と呼んでいた。その背負子を元にフレームパックを開発したのが「KELTY」である。

シエラネバダ山脈のハイカーでありキャンパーであった為、何が必要なのかは十分に理解していた。

そして友人のために初めは自宅のガレージで始めた仕事、ディックは手作業で各フレームを溶接して成形し、妻のネナは第二次世界大戦時のパラシュートパック生地を使用して、各パックバッグを縫いあげた。

"自分が納得出来ない物は使う人も納得出来ない"と作っては壊し、また作っては壊す日々が続いていた。そして1952年、やっと出来たのが29個のバックパック。世界で初のバックパックが誕生したのだが、売上はわずか678ドル。

1個売れて約24ドル、1個を作る時間と労力はあまりにもかけ離れていた。果たして自分がやってる事は何なのか、疑問の毎日であった。

けれどもディックは諦めなかった。いや奥さんが諦めなかったのか? そして翌年の53年には90個、54年は220個を販売した。ビジネスとしてはかなり厳しい状況のはずだが、止めない事が成功への一番の近道と信じ、前へ進んで行った。

kelty 公式ホームページより引用

56年には、通信販売カタログの掲載をきっかけに売り上げが大幅に増加、ディックは今までの仕事を辞め、バックパックの作成に専念した。そして初の工場と小売店を自宅のあるカリフォルニアのグレンデールにオープンした。

それから僅か数年後には、エベレストの登山隊や南極大陸の遠征などに「KELTY」が使われる様になり、瞬く間に事業を拡大していったのである。

最初にパックボードと呼ばれる木の骨組みと帆布で出来ていたものを、航空機用アルミニウムフレームとパラシュート用ナイロン布にして、大幅な軽量化に成功した。

それから、パッド入りショルダーストラップ、ウエストベルト、パックバッグのクレビスピンアタッチメント、ナイロンパッククロスのジッパー付きポケット、ホールドオープンフレーム、ナイロンバックバンド等。

これらは全てディックによる発明の賜物である。

最初のショルダーストラップは、パッティングにウールのカーペットを使用し、オリジナルのクレビスピンは航空機のリベットから作られたのだ。

ナショナルジオグラフィック誌の探検家であるニック・クリンチは、ディックをバックパッキングのヘンリーフォードと呼んでいた。

EDDY

ヘンリーフォードとは、自動車の量産化を発明したフォードの創立者だよ。

ハイカー達の肩から重さを取り除くことで、みなが簡単に山を歩けるようになったのだ。特別な人だけのスポーツではなく、万人が自然を楽しみ遊べる基礎を彼が作ってくれたのだ。

そして先にも書いたが、1963年のF.UnsoeldとF.Hornbeinによるエベレストウェストリッジへの初登頂、1966年ナショナル・ジオグラフィック南極大陸遠征、1975年のK2、1982年Cholatseへの初登頂、そして1983年の7大陸最高峰遠征、そこにはいつも【KELTY】があったのだ。

abebooks.com

この本は、1970年にKELTYのフレームパックを使用した18歳のバックパッカー、「エリック・ライバック」がメキシコ国境からカナダ国境まで4240㎞を縦走する「パシフィッククレスト・トレイル」のスルー・ハイキング(1シーズン以内の全踏破)に初めて成功した時の著書である。

アマゾンでも購入可能であるが、その値段には驚くばかりである。安いもので37,008円、ハードカバー物は171,222円、マスマーケットでは188,450円にもなっている。

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いまでは「KELTY」のバッグは種類も豊富で、子供や女子にまで大人気であるので、少し軽いイメージがついていることも事実ではあるが、アウトドアーブランドの中の横綱であることには間違いない。

「 L 」L.L.bean

「L.L.bean」と言えばビーンブーツトートバッグを連想する。いまや色々な所に店舗を構えているが、1号店はアメリカ東海岸のメイン州に位置する「Free Port」。アウトドア用品なら、ウエアーも含めて何でも揃っている巨大なストアーである。しかも24時間営業。

創業1912年レオンレオンウッドビーンによって設立。商品は「メインハンティングシューズ」。今で言う「ビーンブーツ」である。エディーチャンネルでも紹介しているが、私が30年ほど前に購入したものには「MAINE HUNTHING SHOE」と明記されている。

Free Port の店舗入り口にあるでっかいビーンブーツ。

レオン・レオンウッド・ビーンは、12歳で孤児になった。レオンはまともな仕事もなく石鹸の訪問販売などもやり、世間からはあまり褒められない様な仕事も色々やった。最後にレオンは、フリーポートで乾物店を営んでいた兄の所で働きながら、オーバーオールを肉体労働者に売っていた。しかし本当にやりたいことは、メイン州の森や小川での狩猟や釣りだったのだ。

LLBean公式ページより画像引用

1900年代初頭のハンター達は、ハンティングをする度に靴の中がびしょ濡れになるという問題に悩まされていた。そこで彼はゴム靴に革のアッパーを合体させるという、革命的なアイディアを思いついた。

さっそく地元の靴職人に協力を求め、作業用のゴム靴に革のアッパーを縫い付けてもらい、「MAINE HUNTHING SHOE」の原型を作ったのだった。

そして兄の店舗の地下室を仕事場に事業を始めた。先ずは画期的なブーツをハンター達に知ってもらおうと、4ページほどのチラシを作り、メイン州のハンター達に送った。そのチラシには次の様な事が書かれていた。

『ハンティングにとって、銃のほかにブーツほど重要なものはありません。足が水浸しになる様なブーツでは、猟の成果は期待出来ないのです。重くて冷たい狩猟用ブーツを脱いで、モカシンの様に軽くて快適なブーツを履いてみませんか』『この様な事が約束されなかった場合には、100%返金致します』

このチラシを見た人達から、なんと100足のオーダーが入った。さっそく製造して納品したのだが、そのうちの90足にゴムと革の接合部分に不良が見つかり、約束通りに返金をして事業を失いかけた。

しかしながら借金をして全てを直し、更に多くのチラシを発送したのだ。この事で、どんなに利益を失ってでも、顧客を満足させる事の重要さを学んだのだった。

LLBean公式ページより画像引用

これは有名な話の一つであるのだが、24時間営業なのでフリーポートのお店に鍵が掛かる事はなく、その事を 「私たちは店の鍵を捨てました」と言ったのだ。狩猟や釣りをする人々にとって、夜中や朝方に欲しい物が手に入るという事は、願ってもない事だったのだ。

店舗の営業時間同様、彼は通販にも目をつけていて、レオンの兄、ガイが町の郵便局長になったとき、郵便局の上に仕事場を作り発送の作業を容易にしたのだ。そしてタイミングよく全米の郵便局で小包郵便が開始された。

EDDY

LLBeanと言えば通販カタログが有名だよね?

レオン・レオンウッド・ビーンの名前は、一躍有名になった。そこから印刷広告にも力を入れ、1920年代に入って徐々に広がりをみせてく。 1922年には改良に力を入れ、メインハンティングシューズを再設計。

翌年の1923年、同社のブーツがマクミラン北極探検隊の装備に使用されて、さらに勢いに乗った。それから2年後、靴以外のアパレルとスポーツ用品を初めて備えた、初のフルサイズのカタログが全米に向けて郵送された。カタログは1927年に釣りとキャンプ用品が追加された。

広告コピーの典型は誘因だった。『 魚を釣るために何百ものフライを実験する必要はもうありません。私たちはあなたのためにフライの実験をしました』などなど。

レオンは何年もの間、会社が販売予定の製品を自身でテストしていた。メインハンティングシューズをはじめ、メインガイドシャツ、シャモアクロスシャツ、ビーンモカシン、ジッパーダッフルバッグ、ビーンコルクデコイなど出来る限りの商品をテストしてから、製品化していた。

そしてビーンの顧客リストには、著名人達の名前もあった。カルビン・クーリッジ(第30代アメリカ合衆国大統領)、フランクリン・ルーズベルト(第32代アメリカ合衆国大統領)、ジャック・デンプシー(世界ヘビー級チャンピオン)、ジョン・ウェイン(映画スター)、テッド・ウィリアムズ(伝説のメジャーリーガー)、ベイブ・ルース(ベースボールの神様)、そしておそらく、アーネスト・ヘミングウェイもそうだろう。

今も旗艦店とハンティング・フィッシングコーナーの建物とをつなぐ通路には、すごい量のカタログがディスプレイされている。

2012年に100周年を迎えた「L.L.Bean」は、ビーンブーツモービルを作り、全米中を走り回った。

今はこの車にトレーラーをつなげて近くの高校などに訪問販売に行く。実にクラシックな商売仕法であるが、見事なアイディアである。

「L.L.Bean」と言えばトートバッグ、地元のフリーポートで生産されていてトートバッグの会社と言われるほど超有名であるのだが、メインハンティングシュー(ビーンブーツ)が一番の顔であることも忘れないでほしい。

コロナの影響があって約二年ほどアメリカにも戻れていないが、いろんな事が昔とは変わり商売のスタイルも少しずつ変わって来ているが、今も愛されるアウトドアーのご本尊であることには間違いないのである。

コロナが収束して、またあのフリーポートの街が元気で活気あふれる様になる事を私は切に願っている。

まとめ

今も愛し続けられているアメリカンブランド。J.F.Kはブランドではないけれど、今でもボストンのレンタカーターミナルにはとても大きなケネディーの写真が飾られている。トラディッショナルな服装には東海岸の景色や建物すべてが絵になる。お金に余裕が出来たらJ.F.Kのようなセンスの良い大人になりたいと皆が思った。

海には海の世界が、山には山の世界が、ハンティングにはハンティングの世界がある。ケネディーは海を愛し、ケルティーは山を愛し、そしてレオンは自然の全てを愛したのだった。

今回も長い文章にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。感謝いたします。

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